八丈島のくさや歴史を遡るとイメージが沸いてきました。

昨夜は2時過ぎに風雨で目が覚めました。
一昨日のF18機の轟音には気づかなかったのに・・・(苦笑)

で、朝方再び雨が。
寝不足で起床しました。

ぼっ~としながらメール受信すると
問い合わせメールが。

内容はくさやの歴史や製法について。
大学生が見学に来る時に勉強した内容でしたので
資料を再び引っ張り出し
設問事項について、まとめていきました。

 

で、いくつか興味深い事がわかってきました。

明治10年には青ヶ島で鰹節や鰹の塩辛等の生産記録が残っている事。
明治34年には、八丈島の方が青ヶ島、小島、小笠原を視察し製造場を設置している事。

想像ですが、この頃
水産物を加工しようとする流れみたいな物がうかがえました。

くさや液は、「明治の初期に新島から頂いた」というお話しも
上記の事柄から、想像できますよね。

おもしろいのは明治34年を期に
大正2年 ムロアジの塩干し製造
大正7年 水を使った「半生くさや」の製造
と続き
昭和9年に八丈島水産製造組合成立され
くさやの生産量が明記されます。

昭和8年には春飛魚の大漁が報告されており
水産加工に拍車を掛けたと思われます。

戦後、製氷場も次々と完成し
八丈島くさやは産業として確立していったのでしょうね。

 

まだまだ調べていくと、おもしろい記録が一杯。
ただ書き並べていくだけではなく、当時の方のお話を添える事ができると
もっと良いのですが・・・

父も忘れてきた事がだいぶ多くなり
私の記憶の方が鮮明に。(>_<)

もう少しきちんとまとめていかなければ行けませんね。

 

ちなみにですが
昭和16年5月に発表された春飛魚漁のシーズン結果は
1位 貫徹丸 船主 長田正治 3,472貫700 6,723円44銭

私の祖父です。(^O^)
漁獲高3,472貫と言われても、想像つきませんが・・・
戦前、実家にはくさや液が20タルくらいあったそうですから
くさやにもしていたのでしょうね。

ちなみにそのくさや液は、木製のタルに入れられていたため
戦時中強制疎開させられ、帰島したときには
ほんのわずかになっていたそうです。

 

父に聞くと
鳥島が噴火したとき家を買い、その元家の人がくさや液を持っていたそう。
加工業を営んでいたのですね。
当時はサンゴを採り、その収入を元手に家を買ったそうです。

そう言えば、神東に住んでいた頃
「おまえのおじいちゃんのおかげでこの家が建った。」
と。
当時サンゴの手伝いをしていた家の方が教えてくれました。

サンゴが大きな収入になったのでしょうね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

画像(JPEG)をコメントに添付できます。