軍艦島も、やっぱり子供達が一番だったのですね。

今日も寒いですね。
旅行から帰宅して4日目。
ようやく朝まで寝ることができ、今日は久しぶりに快適です。

最後となったPTA新聞の原稿下書きも終え
だいぶ頭もすっきりしてきました。

昨日書いた旅行の日記を読み返しながら
いろいろと思い出してきました。

軍艦島ミュージアムでは
「いつ頃が石炭の最盛期だったのですか?」
との問いに
「41年 約41万トン。」
と教えて頂きました。

バカな私は、昭和41年と勘違いし
「閉山したのが昭和49年(1974年)なので、まもなくだったんだ~」
と大勘違い。(苦笑)

最盛期は、太平洋戦争が勃発した1941年でした。
1972年には、戦後では最多の35t生産されましたが
それ以後需要の低迷で、1974年1月15日閉山となります。

軍艦島の発展は、
1890年、三菱が旧肥前藩の領主鍋島氏から採掘権を買い取ったことから始まります。
それまで炭鉱生産は上手く行っていませんでしたが
1916年には日本初の鉄筋アパートを建設。
その後も7階、9階の高層ビルが建設され
1960年には、5,267人が住みました。
当時、世界一の人口密度で、東京の9倍とも言われたそうです。

給料が良かったので白物家電は各家庭に揃えられ
テレビ普及率10%の時代に、ほぼ100%だったそうです。

そうそう、ツアースタッフさんの説明では
「当時公務員の給料が2~3万円の時代、
課長クラスは月50~60万円もらっていたそうです。
と説明したら、
先日、病院の先生をやっていらした方から
『月100万円もらっていました。』
と教えられました。」
と。(苦笑)

そんな軍艦島が衰退したのは
エネルギーが、石炭から石油に転換されたからです。

閉山が決まった、1月15日からわずか三ヶ月後の4月20日には
全ての住民が離れ無人島となりました。

三ヶ月という短期間に離島できたのは
三菱が、雇用者全員の次の仕事を準備した事が大きかったようです。
もちろん給料も良かったので・・・。

ミュージアムの説明では
住民には、「また戻ってくる」と言う思いもあったようです。

ちなみに軍艦島の、正式名は「端島」
長崎市の西約19kmに位置します。
元々は、南北に約320m、東西約120mでしたが
埋め立てられ、南北に480m、東西に160mに。

軍艦「土佐」に似ていたため、
「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。

2001年、三菱マテリアル株式会社から高島町へ譲渡され長崎市の所有に。
2008年、「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産暫定リストに追加登録されることが決まり注目されはじめる。
2008~2009年、島の中の通路整備などが行われる。
2009年4月、島への上陸が許可され、観光や見学が可能となる。

周囲1.2kmの島に5,267人。
どんな賑わいだったのでしょうね。

詳細

ただ労働環境は最悪で
地下631mまで毎秒8mで降りるエレベータでおり
そこから更に下って、地上から約1km下で採掘したそうです。

気温30度、湿度95%。サウナの中ですね。(>_<)

一度降りたら、休憩時間も昼食も同じ場所。
お弁当のふたを開けると、真っ白なご飯が真っ黒に染まっていくので
ふたを開けると黒くなる前に食べてしまったそうです。

そんな環境だからこそでしょうか
子供達には日を浴びて欲しいと
小中学校は、太陽が当たる方向に建設されたそうです。

端島小中学校

いつの時代も、子供達が第一なんですね。

そんな学校方面。
貯炭ベルトコンベヤーのある方向に、新たな見学コースの設置が決まったそうです。

こちらの方角ですね。

また行く機会があったときの楽しみにしたいと思います。2018年1月29日 

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